IndexNo:392:親と学校は接点をつくるべきである。
今週、白大の特品は動きが良かったが、規格が落ちると厳しい取引が続いている。球根類は若干の落込みはあるものの、洋花・草花類は依然、好調に販売できている。鉢物は、ようやく秋植シーズンの到来かと感じるほどの取引であり、これからに期待したい。また、正月用の若松・千両等の商品は現在、県内外に視察等をして来週には報告できると思うので期待して欲しい。 TVの宣伝に仕事場の上司から給料の2割を貯金してみたらと問いかけられると「そんなことゼッタイにできない」という部下。そして再度、上司は言い方を換えて「給料の8割で生活してみたら」と部下は「やってみる」という場面のコマーシャルがある。人間の問い方・聞き方でツボをついた良い見本である。先日も友人の家での息子さんとの会話であるが、父である友人が「風呂を掃除しておけ」と命じると息子は「ヤダ」って答えている。そこで私が友人に「お前が便所の掃除をすることを伝え、風呂の掃除は夕方まででいいから頼むよと息子に言ってみたら」と言い、そのことを息子に伝えると「イイヨ」と言って直ちに風呂掃除を始めた。 あんなに反抗的だったのがウソのよう。身体はデカイがまだ子供なんだ。口のきき方を変えただけで素直になったと友人である父親は思っている。 ここからは私の所見であるが、現在の家庭教育と学校教育はデタラメになっていると思う。子供を大切に過保護に育てる、やさしく育てる。礼儀作法などの躾もない。親は子供に厳しいことも言えない。叱れない・殴れない、親は子供の人格を尊重して友達のように接する。つまり『育ちがいい』のである。このように育てられた子供は親を恐れないし、敬わない。親が優しい言葉でお願いごとをすると子供は家の中でいちばん偉い人間だと間違った判断をしている。 学校では、先生は教壇から降りてきて目線を低くして友達のように対等に話をしている。お互いに一人の人間として平等に尊重していこうという民主主義の実践である。子供の教育とは、人間の本質を形成していくことではなかろうか。叱るときは叱るという基本を忘れずに教育をしていけば「いじめ」などはなくなるはずである。何で悪いのかということを理解させることができずに次に進むから、悪かったことを反省できないのである。親も先生も子供の教育に「接点」がない。これからは、両者の「接点」づくりに重点を置くべきである。互いの意見をぶつけて子供の教育を本気で進めていくべきじやないかと思う。 |